July

先日ラジオの子供電話相談室のコーナーに出ていた小さい女の子が、「イルカを触ったら茄子みたいだったー。」と感想を述べていて、思わずクスッと笑ってしまった後に、めちゃくちゃ良い感想だなと、しみじみ感動した。自分はイルカ触ったことないけど、確かに言われてみれば茄子っぽい感じするなーと思うし、イルカを実際に触らないと「あ、茄子みたい」と言う感想は絶対出てこないだろうなと思うと、その素直な感性と、触る体験そのものがすごい尊いものに思われる。良かったなー

Maya Man

南青山のSOOTにて、Maya Manの個展『Secrets From a Girl』観る。(ぬいぐるみのような犬は、作品でなく、たまたま来場していた他のお客さんの連れていた犬。一番展示を楽しんでいたかも。)

自身のTikTok動画が再生されるiPhoneが埋め込まれたサンドバッグや、Instagramなどで頻出する自己啓発的なメッセージをランダムに生成する映像、PCにインストールすると、毎日1枚セルフィーを突然撮影される(そして一言コメント書き込む必要がある)アプリケーションなどの作品が、個人的な(親密な)現実の部屋を模したギャラリー空間に置かれる。インターネット、オンライン上に存在するアイデンティティを不可分なものとして肯定的に語っているようで、同時にその儚さみたいなものを冷静に見ている感じも魅力だった。

Gerhard Richter

東京国立近代美術館の『ゲルハルト・リヒター展』へ。いつだったか忘れたが、以前ワコウで作品を観た時は、今を生きてる作家の作品(現代アートってことか)という感じがしたけれど、今回は画業を振り返る構成もあってか、美術史の一つの参照点という感じがして、少し古臭く感じたところもあった。天井が低い近美の空間のせいかもしれない。

《ビルケナウ》の部屋を一番時間をかけて観た。アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所で撮られた写真イメージを下地にしたペインティング4点と、向かい合う壁にその4点のペインティングを複製した写真のパネル。間の壁面にはグレイの鏡がかけられ、鏡の対面の壁には、強制収容所を撮影した写真が4点。凄惨な出来事は、直視することも語ることも耐え難いけれど、忘却してはならない。パネルになった絵は、本物の絵を前にどこか滑稽なようで、部屋全体に緊張感を与えていた。

Dimitris Papaioannou

彩の国さいたま芸術劇場でディミトリス・パパイオアヌー『TRANSVERSE ORIENTATION』観る。全裸の男性ダンサーたち(本当に全裸、服も着るけど)の、古代ギリシャ彫刻のごとく鍛え上げられた身体。彼らが操る大きな雄牛の動きが、優雅で猛々しく、生命力に満ちていて、本当に美しかった。

改めて振り返っても、何を観たんだろう…と、腑抜けた感想を持ってしまう(観終わったあと手帳に一つ一つのシーンをメモ書きしていて、今読んでもそのシーンは思い起こせるけれど、何を観たんだろうという気持ちになる)。言い訳がましくいえば、圧倒されながら、そういう感想を持ち帰れるのは舞台作品の面白い部分かもしれない。(退屈すぎて、何を見せられたんだ…ということもあるけれど。)

こういう作品を観ると、非西洋の文化圏の人間には、絶対に作れないし、完全には理解し得ない部分があると思う。だからこそ、共通する人間の根源的な何かを感じられるし、わかり合えないことがあること自体を学べると思う。


December

昨年12月、六本木のOTA FINE ARTSで、Maria Farrar『Overseas』を観た。時間は経ってしまったが、所感を書いておこうと思う。その時は作家については全く知らず、別の展示を観に行った際たまたま立ち寄った。半年以上経った今も、鮮明に印象に残っている。

ショウウィンドウに並ぶカラフルなお菓子やパンプス、画面全体の色彩が、ファンタジーの世界を思わせるが、そこに視線を送る女性たちの沈黙が、これは夢物語ではないんだなということを気付かせる。小鳥、犬、一輪の花、パンプス、お菓子、小さなピアス。絵によって異なる場所、状況の中でモチーフが繰り返される。観る人がそれらをゆっくりと眺めることができるのは、絵の中の女性たちが皆、背を向け、隙を与えてくれているからだ。そして女性たちは、それらのものと等しく、「対象」として見られることに気づいているのではないか。

展示空間を歩きながら、自分がこれらの絵にすごく惹かれていることを感じながらも、自分がこの作品を良いと評価するような資格はないのではないかという気もしていた。

マリア・ファーラは、1988年、フィリピン人の母とイギリス人の父との間にフィリピンで生まれ、2歳から15歳までを日本で過ごし、現在はロンドンを拠点に活動している。彼女の母親は、日本やイギリスで、「外国人労働者」として働いてきた。

本展に際して、ファーラは次のように述べます。「海外労働者の声の多くは耳に入ってきません。彼らは芸術家でも政治家でもなく、家族を養うために黙々と仕事をこなしているのです。彼らはこの世界において目に見えない静かな存在ですが、彼らがいなければ社会は機能しません。色が、彼らの声を表すメタファーになればと思います」(展示ステートメントより抜粋)

展示のハンドアウトに掲載されていた、アーティストのブブ・ド・ラ・マドレーヌのテキストも引用したい。

「女らしさ」とは、その土地の歴史の結果であり、同時に発端だ。女性たちが選択したりしなかったり、選択できなかったりしたことの積み重ねによって歴史が作られる。私たちが路上で、レストランで、密室でその歴史に直に触れる。そしてそれは、旅や移住をした時に「ずれる」。土地は相互に影響を与え合いながらもそれぞれ異なる歴史を持つからだ。そのずれた隙間から自分の記憶が立ち昇る。(“女らしさの旅”ブブ・ド・ラ・マドレーヌ(アーティスト) )

「海外労働者の声」、「ずれた隙間から立ち昇る記憶」は、同じ頃に読み進めていた小説、オーシャン・ヴオン『地上で僕らはつかの間きらめく』とも重なり合うような気がする。ベトナム人の母、祖母と共に、アメリカに渡り暮らす僕が、記憶をたどるように母に語りかける言葉。物語そのものが詩のようでもあり、少し読むたびに言葉が反芻し、なかなか読み進められない。そのうち読み終えるのが惜しくなって、そのまま一度本棚にしまってしまった。(この投稿を書くのに久しぶりにページを開いた。)

僕は今、自分が何を言っているのか分からない。多分僕が言いたいのは、時々僕たちが何ものなのか、どういう存在なのかが分からなくなるということだ。僕は自分が人間だと感じるときもあれば、むしろ自分が音みたいだと思う時もある。自分の体が世界と触れているのではなくて、かつての僕のこだまが世界に触れている。母さんにはまだ僕の声が聞こえる?僕の書いている文章が読める?(オーシャン・ヴオン『地上で僕らはつかの間きらめく』木原善彦・訳 新潮社クレストブックス)

ベトナム生まれのオーシャン・ヴオンも、マリア・ファーラーと同じく1988年生まれだ。そのことが自分に強く印象づけられたのは、自分も1988年生まれというだけでなく、昨年3月6日に名古屋入管で亡くなったスリランカ人のウィシュマ・サンダマリさんも同じ年の生まれだったからだ。二度目の東京オリンピックが開催された年に、自分と同い年の、何の罪もない女性が、行政機関で亡くなったことを、自分は忘れないだろう。

マリア・ファーラーの絵と向き合った時に感じたうしろめたさには、ウィシュマさんの事件を通して知った、外国人労働者への日本の酷い実状が想起されたからかなと思う。背を向けた女性に自分が送る眼差しも、暴力でありうる。しかし、ギャラリーを後にした時には、良い作品を観れたという興奮と、前向きな活力を感じていた。作品が、そうした暴力や差別を告発するのではなく、女性たちへの尊敬と賛美を描いているからだと思う。絵の中に生きている女性たちの逞しさに、励まされる思いがした。最低に思われたこの年に、同じ時代を生きてきた作家の絵と、小説に出会えた偶然は、自分にとって救いだった。


ウィシュマさんの事件に関しては、下記のサイトに詳しい。


June

Jaybe Lee

南青山に新しくオープンしたギャラリーSOOT にて、Jaybe Lee の個展『Pain is Just French for Bread』を観る。

彼とは、彼がTOKYO ART BOOK FAIRに何度か出展してくれていた縁で知り合い、今回の展示も連絡をくれた。これまでは写真の作品や本を発表していたので、今回は絵の展示と聞いて意外だったが、実際に絵を観ると、彼の写真にある雰囲気やリズム感と地続きにあるように感じられた。聞くと、コロナ禍で移動が制限されることで写真作品の制作が難しくなり、絵の制作を始めたそう。

自分が撮影した写真をプロジェクターで投影し、それらのイメージを絵の中に重ね合わせて描いている。イメージの重なり、色彩に不思議と懐かしい感覚を覚える。こうした絵を描くのがほぼ初めてと聞いて、こんなに迷いなく伸びやかに描けるものだろうかと驚いた。ビデオの小作品も、自身のアイデンティティについてのエピソードを語る声と映像が、絵と調和していた。数点の絵の一部に蛍光塗料を使っていたようで、お客さんが少なくなったときに照明を消して見せてくれた。ぼんやりと光る部分が可笑しかった。


OMSB

5月に出たOMSBのアルバム『ALONE』をなんとなく聴いたらすごく良かったので、何度も聴いている。そのうちに近く渋谷でワンマンライブがあるということを知り、ふと、行ってみようかな。という気持ちになった。そういう風に思うこと自体が久しぶりでもあったので、チケットを取る。期待通りとても良かった。チケットはソールドアウトで、満員のお客さんを前に本当に嬉しそうな笑顔で、何度も「マジでありがとうございます!」って言っていて、こちらも嬉しい気持ちになった。

ALONE』で歌われる、自分自身や環境、日々の生活、大きく言えば人生を、否定するでもなく、無理に前向きに捉えようとするでもなく、それを受け入れて、なんとかやってくよという態度に、あぁ、そうだよね、そうなんだよな、という気持ちになる。でもそれを共感とは言いたくなく、そうではなく、このままやってくしかないよな、それぞれが生きてくしかないよな、ああ、それも悪くないよな、という感じ。「だってそうじゃん」という言葉の繰り返しに、諦めと意志が重なり、希望を感じ、励まされる。“誰にもなれないし 自分の普通をやる毎日 仲間外れじゃなくて そこに居なかっただけ。だろ? 素晴らしき人生 いっそもう振り切って 死ぬまで付き合うよ だってそうじゃん?”


March

高橋悠治

3月10日木曜日、浜離宮朝日ホールで『高橋悠治 ピアノ・リサイタル “Bのバガテル”』を聴きに行く。3つのB(19世紀のベートーヴェン、21世紀のジョナス・バエス、20世紀のバルトーク)の3部構成。仕事が遅くなり最初のBは間に合わず、2人目のBは途中で会場に着き、ロビーのソファで漏れてくる音を聴いた。最後のBでようやく客席に着く。

高橋悠治のコンサート行くのは何度目だろうか。いつも、どこか小さな朗読会のような趣を感じる。地味ということでもなく、会場が小さいわけでもないが、なぜか小さな空間にいるように感じる。良い演奏をしようという考え一切無しに、演奏を通じて、ある作曲家の意思、生きた時代、その連なりを、譜面から、音の響きから、聴き取り読み取ろうとする姿を目のあたりにする。

彼がピアノの前の椅子に腰掛け、鍵盤に手を置く。と、同時に音が響き、演奏が始まる。よく考えれば、「手を置く」ように見える動作は、実際には「ピアノを弾く」という動作なのだが、その動きがあまりにも何気なく、気負いがないので、スッと手を置こうとしたようにしか見えない。その一連の動きを見るために何度も観に行っているような気もする。


江崎愛

西荻窪HAITSUで行われた展示『PORTRAIT IN NOVEMBER』観に行く。撮り下ろしの人物ポートレートと、それに合わせた写真集の刊行。メインの展示物となっているのは、30分近い作家自身のインタビュー音声だ。インタビュアーの声は編集でカットされており、一人語りのようになっている。展示は各時間1名ずつの予約制で、音声を聴き終わると、本人登場よろしく江崎さんと話せる(不在の日もあったのかもしれない)。元々彼女の人となりを知っているからかもしれないが、すんなりと見れた(聴けた)。

江崎さんのポートレート作品のおもしろさは、人物の本性を写し出そうとするのではなく、自身の現在の関心やムードを人物に投影しようとしているところにあると思う。彼女の語りたいストーリーの登場人物として撮影する。エゴイスティックのようにも思えるが、登場人物のインスピレーション源は、その人物そのものでもあるので、

(…と、ここまで書いたところで、次にまた書き始めるまでに3ヶ月も間が空いた。この投稿を書いていたことをすっかり忘れていた。思い出しながら書いていたことを思い出しながら書く)

彼女が思う人物像を、その本人に演じさせるという些か倒錯した視線ゆえか、被写体の存在感がどこかぎこちなく感じられ、それが写真の魅力となっているのかもしれない。そうしたポートレートは展示形式でシリーズとして発表されることが多く、映画のイメージボードか、小説のようでもある。本展のインタビュー音声では、江崎さんが自身の撮影スタイルについても語っている。「帽子の男の人」、「この女の人」など、人物を名前で呼ばないところにも、らしさを感じる。あえて書くなら、今回の展示は、小説というよりも、エッセイのような趣きがあるな…と、感じたな…と、書こうと思っていたことを思い出しながら。

ak.



New Stockist

金沢のオルタナティブスペース、IACKにて、Curtain issue 1issue 2 を新たにお取り扱いいただいています。2014年、2015年にそれぞれ制作した2タイトルを、今の視点からラインナップに加えてもらえたことが嬉しい。IACKのセレクトのレンジの広さ、深さに改めて驚く。

雑誌という形態で発行することは、"STREET"や、"TUNE"などのストリートスナップ誌のように、同時代のドキュメントとしても参照されること(とはいえ、限られた稽古の時間の中で、トレンドのようなものはほとんど写っていないが)、また刊行の連続性の中で、前号を更新して(裏切って)いくことを企図してのものだった。

テキストやキャプションなどを一切排した構成は、今の自分からすれば、受け手側に委ね過ぎているきらいがあるが、それもまた一つの参照点かと思う。新たな読者の方に手にとっていただく機会があれば、今どのように見えるのだろうか。


IACKhttps://www.iack.online


Never

シカゴ在住のアーティスト、Katelyn Eichwaldによるアーティストブック「Never」。ニューヨークのギャラリーFortnite Instituteで昨年開催された同名の展示に合わせて発行された一冊。彼女がビジュアル・リファレンスとして収集している映画のスクリーンショットをセレクトしてまとめたもの。Instagramでたまたま見つけてフォローしていたアーティストで、いつか作品を観たいなーと思いながら、せめてもの気持ちで本を買ったのだった。

おそらく複数の映画から切り取られたシーンの断片が並ぶ。キャプションやテキストが一切載っていないこの本は、彼女の作品を立体的に読み解くための、言わば3Dメガネといったところだろうか。積極的に誤読を誘うような企図が面白いなと思いつつ、キャンプに行く予定もないのにキャンプ道具揃えちゃったような、空回りした気持ちを抱いていると、Misako&Rosenの年明け最初の展示になんと彼女の名前が。早速観に行く。

小さいサイズのペインティング3点。思っていたよりも浅いタッチの油彩。どことなく不穏なムード、何か起こりそうな気配があるけれど、静かな画面は牧歌的で、見ていて穏やかな心持ちになる。描かれている具体的な光景は、何かの象徴としてではなく、あちこちに飛び交う意識の止まり木のように見えてくる。(この作品がそうだというより、自分がそういう風に”絵”を見てしまう傾向があるだけかもしれない。)

ミサコさんに聞くと、ジェフリーさんもインスタで彼女の作品を見つけたそうで、zoomでスタジオビジットして、展示の準備を進めたんだとか。今回の展示「Portals」は、”もし、Misako&Rosenがオープンしたのが2022年だったら、こんな感じの展示になるかも?”というアイデアで始まったそう。ヤングでエマージングな画家たちとの(想像の)第一歩。Katelyn Eichwaldの他、杉原玲那、Dominique Knowles、Elza Sileの作品も良かった。

ak.


Jaffna Fish Curry

土曜日。アーティストランのギャラリー兼食堂Lavender Opener Chair/灯明で開催されたイベント、Asako Iwama『Fish Curry in Memory / Jaffna Curry』へ。アーティストの岩間朝子さんによる、スリランカスタイルのフィッシュカレーを食べることが出来た。

スリランカ北部に位置する都市の名を冠したカレーは、紛争によって故郷を逃れねばならなかった人々のアイデンティティや、社会学者としてかつてスリランカを訪れた岩間さんのお父さんの記憶とも結びついている。カレーと供に渡される2枚のポストカードには、そのお父さんが撮影したスリランカの写真と、スパイス配合のレシピ、カレーのレシピがそれぞれ印刷されている。このポストカード含め、食事の体験そのものが作品として捉えることができるのかなと思う。

岩間さんの料理、作品に触れるのは初めてだったけれど、後でインタビュー記事を読むと、もともと都市空間に関心を抱いていたと語っていて、なるほどなーと思う。アーティストユニットのL PACKがやっていることにも共通するけれど、食事を振る舞うことで、人が集まる場所を作ったり、空間を変化させることができるのは、"食"のすごい力だ。

食べるという行為はあまりにも日常化しているので(というより、生きるために不可欠なので)、対象化しづらいけれど、自分が食べたこのカレーを、時間も空間も違う誰かが食べていた(かもしれない)ということへの気づきは、意識の拡がりとして面白い。"食=文化"などの背景や、関連する社会問題などを考えはじめると果てしないけれど、「フィッシュカレーがめちゃくちゃ美味しかった!」という感動は、日付がスタンプされたポストカードと一緒に、ひとまず持ち帰ることができる。(ごちそうさまでした!)

ak.


ENOUGH

積雪の東京。先月に訪れた金沢、富山で本場の雪景色に見慣れていたせいか、驚きは薄いが、歩くのは楽しい。

金沢は、NN | NEW ACCIDENT で開催された、友人でもある金山永明、龍崎俊の二人展『HTPX by Eimei Kaneyama and Suguru RYUZAKI』 のオープニングに合わせて出かけた。龍崎さんの写真の上に、アキさん(金山永明)が、ペイントをした共作。龍崎さんの強度のあるイメージの上に、奔放な線が動き回る感じが、観ていて心地よかった。絵としての完成度が非常に高く、調和しているので、それゆえに少し物足りなさも感じた。もっと不完全なものが見たいという欲求が自分の中にあったせいかもしれない。

久しぶりにIACKにも立ち寄る。以前から気になっていたkeijibanIACKのすぐ近くにあり、Lawrence Weinerの作品を観れた。海外アーティストのエディション作品を、街の掲示板を利用して発表している。掲示板にある小さなQRコードから、作品情報を読むことができ、エディションを購入することもできる。さりげなく街に開かれている在り方がすごく良いなと思う。

金沢21世紀美術館では、『ぎこちない対話への対応策 第三波フェミニズムの視点で』と『フェミニズムズ / FEMINISMS』を観る。(地下展示室で開催していた『海部公子 色絵磁器陶版画展』も観た。じんわり良かった。)

『ぎこちない対話〜』は、ゲストキュレーターのアーティスト長島有里枝が、作家としてどのようにフェミニズムと向き合ってきたか(向き合わざるを得なかったか)を立脚点として、出品作家たちとの対話を重ね、展示が構成されている。自分自身を”フェミニストじゃないと思っていた“立場から、”わたしはフェミニストじゃないと思っている人へ“と語りかけるステートメントはとても真摯に感じたし、公立の美術館でフェミニズムの展覧会を行うことの意義についても改めて考えさせられる。これまでフェミニズムの文脈で紹介されてこなかった作家(男女の性差に関わらず)や、直接的にフェミニズムを扱っていない作品の中にも、”フェミニズムの見地”から見れば、共通する問題意識が浮かび上がってくる。そのことが展示作品を見ていく中で気付かされ、そうしたフェミニズムの見地からのまなざしを、社会だけでなく、身の回りの出来事や、自分自身の言動、考え方にも向けてみることの必要性についても考えさせられた。

他方、『フェミニズムズ〜』では、ジェンダーの問題、フェミニズムを正面から扱う作品、作家が中心となっている印象だった。90年代以降のフェミニズムが、若い女性を中心に、POPカルチャー、メディアを通して広がっていき、現代では世界各地のムーブメントがインターネットによって繋がり、複数形で語られ始めている…というステートメントの見取り図は間違ってはいないと思うが、微妙な違和感を感じる。複数形、多様性を認めつつも、それらを”フェミニズムの表現“と一括りにすることは、どこか抑圧的じゃないだろうか。東京オリンピックや、NHK紅白(テレビっ子なので、無条件でつい見てしまう…)が掲げる多様性への違和感と通ずる気がする。『ぎこちない対話〜』が丁寧かつ慎重にフェミニズムの遍在を語った後に観ただけに、結構くらってしまった。この2つの展覧会を同時に開催する美術館のメッセージは何だろう。

ぎこちない会話への対応策—第三波フェミニズムの視点で

フェミニズムズ / FEMINISMS

と思っていると、年明けに森美術館の『アナザーエナジー展」』関連プログラム トークセッション「エキシビジョンメイキングに見るフェミニズム」がYoutubeで公開(2022.1/24までの期間限定)されているのをみつけて視聴。長島さんが、結果的に1つの企画が2つの展覧会になった”鬱々とした”経過に関して語られていた。

”個人的には分かり合えないところは埋まらなかったが、『フェミニズムズ〜』については、間違っているとは思わないが、自分とは違う方法をとっていて、でも私がやりたいことじゃないなというだけで、それと適度な距離感をとりながら眺めていく。100%容認する必要もないし、100%否定する必要もない、そういう宙ぶらりんな状態がいいものなんじゃないか”と話されていた。また、“20歳で何もわからず作家としてデビューさせられた自分は、わからない人たちの側に立って何かできるんじゃないか”という発言も印象に残った。(*どちらもYoutubeを視聴してのメモ書き)

また、上記の発言を受けて、笠原美智子さんが、”お互いの差異を認めることはフェミニズムの根底にあるもの”とし、フェミニズムが怖いと若い人たちに思われることについてどうかという問いに、”怖くて良いんじゃない?”と語っていたのが力強かった。プレゼンテーション含め、2時間ほどのトークだったが、とても充実した内容だった。小田原のどかさんがフェミニズムを学んでいく中で、”自信を持って疑問を持っていいんだ”と気づいたという言葉も印象に残った。

その翌日、まだ観ていなかった『アナザーエナジー展:挑戦しつづける力―世界の女性アーティスト16人』を観にいく。遅い時間まで開館しているのはありがたい。初見の作家が多く、見応えがあった。カタログの論考で ”彼女たちの評価にこれほど時間がかかった理由を考えてみることにも意義があるだろう。(中略)ひとつには、ジェンダーや年齢を含め、何らかのアイデンティティや傾向を単純に表象していない、ということが考えられる”(p116 アナザーエナジー ステレオタイプ、カテゴリー、完璧さから自由であるために 片岡真実)と書かれているように、多様で複雑な表現を続けてきたからこそ、現代に作品が響くのかもしれない。共同制作や、手工業的な作品が多く、全体にしなやかな印象の作品が多かった。作家全員がそれぞれインタビュー動画で紹介されているのも魅力だった。本人が顔を見せて直接作品について語ることそのものが、作家を神格化し、権威的にしようとすることに対する対抗のようにも感じた。時間がなかったので、動画をまた後でゆっくり観たいなと思っていたら、Youtubeに全編上がっていた。

Suzanne Lacyが、動画の中で、(若い世代のアーティストへのアドバイスとして)「誰に語りたいか。誰が観客か。あなたはどこにいると想定されるのか。」と問いかけたいと答えており、どこかで聞いたな…と思うと、パブロ・エルゲラの『ソーシャリー・エンゲイジド・アート入門』(フィルムアート社)の中で、“「誰があなたのオーディエンスか?」これは教育者が活動の計画段階で最初に問う質問である。”(p.59) と書いていた。

Suzanne Lacyは、森美術館館長とのアーティストトークも公開されていた。美術館に訪れることがない人についての想像力を、両者が語っていて、「わからない側の人に立つ。」という長島さんの言葉を重ね合わせながら聞いた。

ak.


Small things

ここに、読んだ本、見たもの、考えたことなどの所感を書き残していこうと思う。小さいけれど、何か良いなと感じられたもの。それを読み返したとき、もしくは、読んでくれた人と、何か交換できるものがあるだろうか。

ak.



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